2010年7月3日土曜日

J( 'ー`)し「ええねんで。」


どうもみなさんこんにちわ。

今日は朝から京都は大雨です。
傘も効かないような大雨なので、朝一番から既に通勤する気力の失せてしまった私は超マイナスモードで、自宅でボチボチ作業しつつ。片手間でテルテルボーズを作ったりしております。

まあちょい涼しいのはいいんですけどね。湿気はともかくとして。(´・ω・`)


今日はいつもの勤務先の近所の高木コーヒーに行くわけにもいかないので、コンビニで買ってきたコーヒー片手に、ちょいアンニュイな天気と、グレーの彩度の低い日差し、で色々考えてみようかなと思いまして。


私もこういったWEBのブログという形式のものは昔から読ませていただいたり、情報を提供してもらったり、色んなことで関わってきていますけども、自分自身でブログを始める事になるとは当初思いもしませんでして。でも気がつけば昨日でようやく2ヶ月経過したかな。というところです。

当初は記事を書くことが何を書いて良いのやらよくわからず、仕事の合間に記事を書く時間を設けることも難しくて四苦八苦しましたけども、最近はようやくなれてきまして、色々記事を書くことが楽しくなりつつあったりしたんですが、最近になってよく思うことは

「WEBの中ではなく、リアルの世界で言われる意見や感想などには超反応してしまう」

という事ですね。

まあ別段、ものすごいプライドを持ってこのブログをしているわけでもありませんし、ただの落書きチックなものだという考えもあるんですけども。

私もこういう性格上、他人から色々言われるのには慣れすぎて言うくらい慣れてまして、仕事でもプライベートでも、O型特有の「右から左へ受け流す」スルー特性があるはずなんですが、どうもブログの事に関してリアルで意見を聞くと、なかなかにそういう反応が出来にくい場面があることが、最近になってわかってきました。

私の正体自体は伏せて運営はしておりますが、まあ会社やその他の方面にも、特に宣伝はしてませんけども、制作物やなんかを掲載する都合上、その存在は公にしてしまわないといけませんもので、今現在はWEBでお話を聞くよりも、仕事場やプライベートでその話しを聞くことが多いです。

この世の中には、同じような形式で運営されている人々もほんとに沢山いらっしゃるのですが、そういった方々も同じような思いをされてらっしゃるのかなあ・・と考えたり。


人間というのはつくづく思うのですが、「自分の立ち居地」を確認しながら生きていくものなんだと思います。

他人から自分はどう思われているのか。自分にとって、その他人はどういう人なのか。

誰かが言ってましたが、「社会の横軸と、歴史の縦軸の交差点に自分は居る」という事に対する確認をしていかないと、存在自体があやうくなってしまうのかもしれません。

それが家族であったり、会社であったり、取引先であったり。それは人それぞれだとは思うんですけども。

ですのでこういったブログサイトひとつとっても、それがWEBの世界の本当に端にある小さなことであっても、影響というのは多かれ少なかれいろんなところにあるのだという事ですかね。



私は仕事はもう本当に、他人から見ますと「気が狂ってる」ていうくらい大好きでして。

実はぶっちゃけ、睡眠時間が無くなったらもっと色々出来るのになあ。。て思うくらい、仕事が好きです。

自分自身が電気で稼動する機械になりたいくらい。

まあ他の人から見ますと、相当変人だと思われるのが主なんですけども、その部分を踏まえた上で、親切にしてくれる友人達もごくごく少数ですが居たりしております。

仕事場やその他から色々言われるのはもう全然3秒後には忘れて、都合のいいことばかり解釈するというスーパーテキトウブレインのおかげで、内容はしっかり記憶しても、その他のことは全てスルーできるはずなんですが、そういった友人知人に意見を言われると真摯に受け止めすぎて、真意とは違う受け取り方をしてしまったり。

その影響で、人間関係や仕事にまでちょい影響が出たりするのが、今の現状ってとこでしょうか。



急に話しは変わりますが、私の祖母は大正生まれのずっと京都に住んでるばあちゃんでして。
営業セールスが来たら、ものすごいニコニコしながらお茶を出しつつ、5秒で退散させるという、生粋の京都人でした。

長生きしたのと、息子娘が沢山いましたので、その子と、孫達からは絶大な存在のまさにグランドマザーそのものだったのですが。

私のばあちゃんが昔に、一度脳梗塞だったか脳内出血かで倒れたことがありまして。

その時は頭蓋骨を耳の上から半分取っ払って、12時間以上に及ぶ大手術の上で生還したという、医者から言わせると「奇跡」なようなことがありました。

ですがそんな大手術をした後で、意識は戻ったのですが、やはり脳を手術したせいもあり、手術後半年間ほどはずっと植物人間のような状態で、私の親兄弟を含め、親戚一同で毎晩毎晩入れ替わり立ち代り、何か異常があったらいけないからと病院に詰めていた時期がありまして。

もちろん私も大好きな祖母なので、意地でも復活してもらわなくては困ると思い、毎晩ではありませんが、何度も何度も仕事からそのまま病院に行き、朝まで看病していた時があったのですが。

ですが目は開いたりしまったりするんですが、言葉をかけても反応もなく、聞こえてるのかないのかもわからない状態。

でも私はその時、仕事で色んな悩みを抱えていまして、黙っているのも嫌なので、そこに行っては何かと仕事のグチですとか、相談を独り言のようにブツブツ言い続けていました。

そんなときに、仕事で本当に言い方ひとつの問題なのですが、私が一言親切でお客様に言った言葉のために、大事な大事な取引先を失ってしまうような事態に発展したことがありまして。

口は災いのもと。そういう事は諺だけだろうと思っていたのが嘘のように、私は会社で孤立し、それに伴って人間嫌いになり、誰とも口を利かなくなっていきました。

自分が何か発言することで、誰かが損をしたり、傷つけるのが不安で不安で、コミュニケーションをうまく取れなくなってしまったのです。

絶対自分だけはそんなことは起こりえない。そう考えていたのが、本当に嘘のようでした。

もう自分はこの会社では、このままではやっていけない。存在自体が意味が無い。

何度も何度も、ホームに入ってくる電車に飛び込んだら楽になるかも。と思った事や、縄跳びで首をくくってみたが、紐が切れてしまってガラス戸割っただけで終わってしまった事を、寝てるのか起きてるのか解らないおばあちゃんに一晩じゅう、泣きながら話していました。

一通り泣き喚きながら話した挙句、朝の6時になり、私も一旦帰宅しなきゃならないなあ・・と思っていたときに。植物人間のおばあちゃんが、本当に小さい小さい、蚊の泣くような声で、

「傷つけたらええねんで。」(´ーヽ`ξ

と、一言だけ、いいました。



もうこれ以上腫れようが無いような目をしながら、嬉しいのか悲しいのかよくわからない錯乱状態で周りの病室に聞こえるほど大泣きした挙句、
その騒ぎで看護婦さんが駆けつけてくれて、おばあちゃんはそこから徐々にですが、普通に話したり、最後には運動までできるように回復しました。


私は疲れ果ててしまったので、一旦帰宅し、ただひたすら眠って、その翌日から徐々に、ちょい荒れた芸風で所かまわず顔を出し、仕事を続ける事ができました。




人間は、悲しいかな会話でしかコミュニケーションは取ることが出来ない。
あんたが何を、どう思ってるのかは、会話が無いということは思っていないという事だ。
それを汲み取ってもらえるというのは、まさにその人のエゴでしかありえない。
悲しみも、喜びも、何もかも、人間は言葉によって運ぶ。だから傷つけることを恐れていては、傷つくことを恐れていては、誰も幸せにも出来ないし、自分も幸せにはなれない。


別におばあちゃんに後からその一言の真意を聞いたわけでは無いですが、私はその時に、そんな風に言われたのだと思いました。

アタリマエのことかもしれませんけど、アタリマエのことほど、難しいことも無いと思います。


言葉のせいで、すごく好きな、親しい人を傷つけてしまったり、そのせいで自分が傷ついたり。
人間の口から出た言葉や、書いた言葉はいつのまにか独り歩きし、独自の人格を形成して、もしかしたらその言葉を発した本人にとっての脅威になったり、その言葉の主の人格を否定したり、逆に異常なほど大きく見せたりするのかもしれません。

その言葉のせいで、大好きな人の笑顔を曇らせたり。そのせいで取り返しの付かないことになるのは誰だってツライですね。

私はこのブログというもので、また色んな人を傷つけることもあるでしょうし、逆に傷つくこともあるかもしれません。ですけども、それをやめたり、自分を表現することを控えるのはやはりできません。


人は人を選ぶわけでもなく、選ばれるわけでもなく。ただ居心地がいいから、その場所に集まってくるんだと思います。

その居心地が、サイトによってはお金であったり、趣味的なものであったり、多種多様だとは思いますけども、それでいいんじゃないのかな。と思ったり。

でも悪意のあるのはダメですけどね。陥れるとかはゴメンですけど。(;´Д`)

私も色々ありますけども、一部だけでも全部でも、たった一人でも、そういう居心地の良い場所にこのブログがなったらなあ。。なんて思います。

できれば、私の大好きな人達にとっても居心地の良い場所であればと。

その人が楽しんでくれさえするなら、ずーっと続けていけるのかなと。


ま、媚は性格上、売れるようなものはありませんけどもね。。


テルテル坊主を作りながら、記事書き始めからまだたった二ヶ月目の、
あたり一面モノクロの大雨の京都の一日。

たまには全然関係ない自分を綴ってみたりしたNAWOでした。(´∀`)

皆様も良い週末を。。。。

4 件のコメント:

  1. nawoさんこんばんは!

    いつもBlogを読ませて頂いて、nawoさんは知性があるなぁとずっと思ってました。

    俺は、知性とは、詰込まれた知力の総量では無く思考の筋道だと想ってるから、今のまま感性で居心地の良いBlogをズ~ッとよろしくお願いしますよっ。

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  2. 詰め込まれた知力の総量ではなく、思考の筋道。

    めちゃめちゃいい言葉にものすごく久しぶりに鳥肌が立ってしまいました。。

    私からすれば、Tappyさんに教わってることもものすごく多いので、恐縮なんですが、実際はものすごく嬉しかったりします!

    そんな居心地いいって言ってくれる人が、もっともっと増えてくれれば、たぶん私ももっと居心地いいんだろうな。

    そんな漠然とした目標くらいしかありませんけども、そんなだから書けるのかもしれません。

    本当に力をもらって嬉しい限りです。頑張りますね。
    ありがとうございました。。。。

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  3. ノールです。
    朝からブログを読みふけってます。
    言葉は一度口をついて発せられると、取り返しが出来ませんからねえ。特に相手の気心が知れない方との会話は慎重に成らざるを得ません。ただ、その言葉を贖う事は間違いなく出来ると言って良いかも知れませんよ。

    明治、大正の女性って何故、あれだけしっかりした骨格を持って居るのでしょうねえ?それだけ大変な時代を生きてきたって事でしょうか?
    私の婆さんは明治生まれ92歳で大往生しましたが、彼女の言葉は「この世で仕出かした不始末は、この世で贖えない事は無い!」ですよ。
    nawoさんの婆さんの言葉ととっても近い言葉だろうと思います。そう「傷つけたらいい!」の後ろの言葉は、家の婆さんの言葉に繋がっているんだろうと思いました。

    彼女達は其々、確固たる信念を持ち、柔らかくそれを伝える術を持ち、頑強でいてしなやかな素敵な世代が在ったんですねえ。

    人間、3回来られると情が湧きます。起こした不始末も3度の贖いが必要なんですよ。これは私の言葉ですがね(笑)

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  4. >ノールさん

    ありがとうございます。

    明治にしろ、大正にしろ、私たちのおばあちゃん世代の方々は、本当にどんな経験をしてきたのか。
    多分私も想像も出来ないような事を、沢山経験してきているんでしょうけども、どなたもそうなんですが、自分の事は話さないんですよね。

    戦争やら色々経験してるということも有るのかもしれませんが、ただ無言でもそういう一言一言がとても重く、私もいつも助けられていた記憶があります。

    日常生活で普通に生活していたところで、知らず知らずのうちに誰かしら傷つけてしまうのは仕方無い事。とは思いますけども、素直に謝る事が出来なくならないようにだけ、私もいつも気をつけています。
    人の話を聞けなくなるほど、悲しい事も無いですからね。

    三回で情が湧くってのは本当に同意です。
    でも3回でも10回でも、私は必要であれば贖いというより、分かってもらうためにも必要なことはするべきなんだろうなあ。と思いました。

    強さの裏にある柔らかさを私も彼女達のように持てたらなあ。そうつくづく思います。
    ものすごく難しい事ですけどね。

    ノールさんにもいつもお世話になりっぱなしで(汗)なんとお礼を言えば良いのかわかりませんが、これからも精進していきますです。

    本当に有り難うございました。

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